久しぶりに散歩に出てみた。いつもはほとんど車で移動しており、自宅の周辺をゆっくり歩くことなどめったに無かった。点から点へ車で移動し、用事が済めば再び車で帰って来る。途中の状況や景色などほとんど記憶に残っていない。ましてや道端の草など、ここ数年ほとんど見た記憶が無い。
自宅のまわりをゆっくりと歩いてみて気がついた事がある。それは、まったくあたり前の話であるが、舗装道路の道端にもいろいろな草が生えているということ。コンクリートとアスファルトに塗り固められた都会の中で、ほんの少しの隙間を見つけて、あるいは舗装を突き破ってさえも草が生えている。ものすごい生命力だなと思う。だけれど、人は彼らを「雑草」と呼ぶ。
畑では作物以外は雑草。水田では稲以外は雑草。花壇では花以外は雑草。ゴルフ場では芝以外は雑草。畑の雑草と水田の雑草、花壇の雑草、ゴルフ場の雑草、いずれも同じものではないが、みんなまとめて雑草と呼ばれ、じゃま者として排除される。抜かれ、切られ、踏みつけられ、農薬をかけられて容赦ない殺戮が行われる。
雑草とは、有用な目的物を除くその他大勢。無用なもの、迷惑なものなのだ。
でも、少し待って欲しい!はたして本当にそうなのだろうか?この世の中に生きているもので、まったく無駄なものなんてあるのだろうか?有用と無用との差異はいったい何なんだろう?
河川堤防の雑草達とつき合うようになって10年以上になる。十派一からげに雑草と呼ばれているものが、実は人間の目線を下げてよくよく観察すると、いろいろな性質と特技を持ち、とってもおもしろい飽きない者達である事がわかる。あたり前のことであるが、この世の中に「雑草」という名前の草など無い。みんなそれぞれ好ましい名前を持ち、役割と個性とを持って生きている。決して無駄なだけの存在ではないはず。
森に住む多くの動物達が木や草を食糧としているように、人間も昔から多くの草を食べ続けてきた。そして今も食べ続けていて、畑で栽培されているような草についてはかなり多くの事が解かって来ているらしい。反対に、栽培の対象とならないような草種に関しては、ほとんどな〜んにも解かっていないのが実態だろう。生態的役割とか生理的特性、他の草種との関連性、アレロパシーの有無、遺伝情報の有用性、などなど。それでも人は彼らをやはり雑草と呼ぶ。
戦時中は、外国人を殺すと勲章がもらえた。それも、大勢殺せば英雄であった。そして当時はそれが正しいとされた。今は国際的な犯罪者となる。社会の規範や価値基準は時代の変遷とともに変化する。未来永劫不変のものではない。今、我々を取り巻いている常識や価値基準とて変化しないわけがあるまい。それに、研究や技術のレベルが進歩すれば、今日解からないことも明日には解かるかもしれない。解からないことが解かるようになれば、社会的価値が変化し、今日の雑草が明日も雑草であるとは限らない。
今日我々が生かされている社会は、経済性と効率性の原則に支配されている。非経済的なものや効率の悪いものは切り捨てられる運命にあった。経済性の原則を否定するつもりは無いが、ひとつの物差しですべてが測られることに対して大きな疑問を感じる。今日は価値が見えなくても、将来においてビックリするような価値が見いだされる可能性は多分にあると思われるから。
自分が相手を知らないからという自分自身の無知を唯一の理由にして、相手の価値を知ろうとする努力をまったくしないというのは、あまりにも傲慢ではなかろうか。せめて、雑草達と固有名刺でつき合って行きたいと思っている。