角田山:「自然保護」の黒い手  白崎 仁



 晩秋の11月3日は、全国的に晴れの特異日とあって、前日の雨はうそのようであった。小六の息子とともに、久しぶりに角田山の、越冬準備をしている植物の観察に出かけた。 山頂まじかな観音堂で多数の登山客に混じって遅い昼食をとり、山頂に向かったが、いつもの風景が一変した光景に、足が立ちすくんだ。なんと、あたり一面見通しがよくなり、なにやら縄張りがしてあるではないか。昨年春に訪れた時は、松枯れが進行し、クロマツの樹勢がすっかり衰えていた。倒れては危険と思っていたが、登山客に被害がおよぶことを察知して切られたらしい。切られた松は、ビニールで包まれて、殺虫されている。自然現象でやむをえないか、とさらに進むと、マツだけでなくヒガンザクラやウリハダカエデ、エゴノキなども見あたらない(写真1)。縄張りの内側には、なにかの苗木が植えられている。登山客は窮屈そうにそれらをかこんで昼食中だ。縄につけられた札には、「角田山みどりのネットワーク」の名で、ブナ、ミズナラ、イタヤカエデを植えたと記してあり(写真2)、善意で植えた意図が読み取れる。いったいどういう団体かは知らないが、この角田山山頂を大改造したらしい。近くを見れば、無残な死骸と化した伐採木が積み上げられているではないか(写真3)。呆然と立ちすくむ私とともに、息子も衝撃を受けていた。ここは、息子もしばしば足を運び、慣れ親しんだ場所だったが、この光景を目の当たりにして、山頂に立った感激はすっかり消滅してしまった。


写真1
見通しのよくなった山頂、伐採されたヒガンザクラ、
遠方に山小屋「健養亭」と縄張りを囲む登山者。


写真2
縄張りにつけられた「角田山みどりのネットワーク」の看板


写真3
伐採されて積み上げられた無残なサクラほかの樹木の死骸。


 山頂の三角点わきには、国定公園・・・の看板が一際大きく掲げられている(写真4)。この看板はかなり以前からここにあるが、この「・・・みどりのネットワーク」の行動に、県と町が立ち会った結果がこれか?原発設置に強い反応を示している巻町や、絶滅の危機にある植物の保護調査を企画するほどの県の、見識の深い方々が、まさかこれに手を貸したはずはあるまいと思うが、真相はどうなのだろう。


写真4
角田山山頂の三角点わきに立てられている
国定公園を示す看板。

 山頂で、しばしば目をつぶり、これらの死骸に手を合わせ、過去の山頂の景観に思いをめぐらした。今から約30年以上前のこの場所は、身の丈以上に繁るススキに覆われ、山小屋「健養亭」も無かった。昨年(1995年)、落雷で、片方の樹を失ったが、両立するドイツトウヒが、象徴のように立っており、観音堂(その当時はなかった)から山頂まで続く尾根は、コナラ、マルバマンサク、エゴノキ、オクチョウジザクラなどの低木と、まばらに植えられたクロマツが繁っており、見通しはほとんどできなかった。23年前に、見晴らしをよくするために、山頂を覆っていたこれらの底木やススキが、かなりの広さで刈り払われてしまった。観音堂の場所は、見晴らしのためにその周囲が伐採され、建設資材を運ぶケーブル設置のために、ケヤキ谷のケヤキの大木が一部伐採された。ツバキ谷の上部は埋められ、水量が減少して、この山塊のサワガニは絶滅した。巻町ハイキングクラブの人達の努力(人力で運搬)で山小屋が建てられたが、ひっそりとしたたたずまいには、あまり違和感がなかった。クロマツの下は直射日光が良く当たるようになったため、ナガハシスミレやエチゴキジムシロが一面に広がったが、人が走り、ボール遊びなどもするため、すっかり裸地化してしまった。登山客の増加とモラルの低下で、ゴミが多量に堆積し、始末に困って、深さ2メートル、縦横5メートル四方ほどの大穴が2つも掘られてその中に処分された。そこで、5月の連休には、多数の人達は、山頂の満開のヒガンザクラの下で弁当を広げて自然を楽しんでいた。ヒガンザクラと2本のドイツトウヒは、昭和の初めころに県下一体で植林ブームとなった残存としての意味があり、山頂の風景の一部としても親しまれていた。

 1972年から3年にわたって、卷町・潟東村の企画で、新潟県生物教育研究会西蒲支部(代表:池野一男氏、ほか25名)の人達によって、角田山の動植物の総合調査が行われた。経費はおよそ3千万円ほどで、調査報告書「角田山の自然」が完成した。その中には約800種の植物、数千の昆虫や動物などが含まれるが、自然は奥が深く、3年程度では知り尽くせない多くの課題を残した。その中の一つとして、「角田山にはブナが存在しない」だが「ブナしか食べない昆虫が生息する」謎があった。弥彦山にはブナがあるが、そこから飛んでくる飛行能力はないという。この課題が解決されたとは聞いていないし、その昆虫が角田山で生態的に特異な進化をしたとも思えないから、角田山がその昆虫の生態を探る重要な鍵を握っていることはまちがいない。ブナが植えられたことによって、この問題を解決する重要な鍵が失われてしまった。

 最近の遺伝子レベルの研究の親展はめざましく、進化や系統を探る情報が次々に得られている。森林を構成する種がどのような類縁関係を持つか、どの地域の種と関連するかが研究されつつある。そのような時代に、どこからか素性の知らない野生樹が持ち込まれ、在来の種との交配がおこれば、類縁関係を探る上での情報に混乱が生じて、目にみえぬ破壊が進行する危険がある。ブナやミズナラ、イタヤカエデなどもってのほかである。イタヤカエデの仲間は、県内で複雑な種組成を持っており、その中に紛れ込んだものは、植えた個体に留まらず、交雑の危険があり、時間が経過すればそれを野生種と誤認する人も出てくる。ブナ林があればいいなあ、と感傷に浸る時代は、単なる懐古趣味でしかない。目に見えぬ破壊による混乱を防ぐには、ソメイヨシノ、スギやマツを植える方がまだましである。これらは人の手で植えたことが誰にでもわかるし、交雑も心配ない。ブナを植えたいなら、自然を十分理解した上で、混乱しない場所、たとえば街中の公園にブナ林を作ることをお薦めする。

 先に述べたような、昔の姿を返せといっても容易ではない。植えられた苗木が全て育つとは思えないが、これらの中で生き残ったものは、手をかけた関係者が責任をもってすみやかにかたづけて、今後はなるべく手を加えぬように見守っていただきたい。失われたものは取り返しがつかないが、せめて山頂周辺に成育する木の実でも集めて、跡地に散布する程度にしてほしい。

 角田山の自然を熟知している人、今後さらに詳しく調べたい望む人は多数いる。その中でも佐藤七郎氏は30年以上前から買う駄山の植物に魅せられ、これまでに3000回近くにわたって足を運び、一般登山道に限らず、谷や尾根などを放射状、らせん状に調べて、1000種にのぼる植物を記録し続けている。11月中旬に弥彦山頂で植物の同好者の集まりがあったおりに、角田山の惨状を報告したが、ほとんどすべての人達がその情報をすでに知っており、批判の声は新潟平野一帯に響き渡るようであった。25年前に山頂を訪れた故小林敬氏は、少年や主婦なども含めた100名ほどの参加者一人ひとりを、目の前の樹々にしがみつかせて、植物生態の調べ方について説明を行っている。私の目の奥にはその光景がしっかりと焼き付いている。当時の参加者は、現在ではその子供や孫を持つ世代にあたり、それらとともに、再びこの山頂をめざして登るだろう。だが、今、目を開ければ、昔のおもかげもない。

 「自然保護」の黒い手に導かれて、自然のしくみをなにも知らない若者たちが、自分の行為の軽薄さに気がついて深く傷つく時、主催者の責任は重大である。それにも気づかず、ほかの山々でこれと同じことを繰り返せば、いったいどうするか。「・・・ネットワーク」に参加した人達の「善意」は間違いではないと思うが、「自分は自然のよき理解者である」との思い上がりは、明らかに「間違い」である。多くの人達に失望と憤りをもたらし、自然に対して深い傷跡を残したことに対して、主催者には深い反省を求めたいし、県や町の関係当局には、国定公園が大きく改変されたことの詳しい実態の解明と改善をお願いしたい。看板にあるように(写真4)、自然の動植物をながく子孫に伝えましょう。

(1996年12月)



参考文献
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