ガーデニングブーム考  目黒 修治



 1998年8月1日〜10月18日の約80日間に渡って、第15回全国都市緑化フェアー新潟大会が盛大に行われた。期間中、地方気象台観測史上希に見る不順な天候にも関わらず、のべ97万人にのぼる人々が会場を訪れ、世界の花・日本の花々及び多用なイベントを楽しんだ。

 日常の生活の中では滅多に見られないものをふんだんに楽しみ、植物と触れ合い、多くの人と出会うことは、それだけでも心豊かになれるであろう。緑化フェアーを通じて心慰められ、花や緑への関心を持つキッカケになれば、おおいに効果ありと考えても良いと思われる。

 昨今、ガーデニングに対する人気が急激に上昇しているという。経済低迷の中で、一躍注目され活気を呈している。暗い話題が多い中で数少ない明るい話ではある。ガーデニングは、自然と触れ合う機会が少ない都市生活者にとって、潤いを感じられるささやかな楽しみなのかもしれない。

 しかし、ここで少し気になることがある。「今、なぜ、ガーデニングブームなのか」。かつて、私達の祖先は森に生まれ自然の恵みによって、生かされてきた。食べ物・住処・衣服・医薬品等、生活に必要なすべてのものを自然の中に求め、海や川や森に依存して生活してきたのだと思われる。

 狩猟を生業とした時代から農耕の時代へと変化する中で、最も重要な「食料」を計画的に生産する技術を獲得し、食料を備蓄することで生きるための「担保」を獲得し、富の集積が始まった。この時から、人間と自然との「乖離」が始まったのであろう。以来、文明の発達(?)は自然と人間との乖離を拡大し、都市の構築とそれへの集中が進み現在に至っている。

 つまり、都市とは、その本質において反自然を飽くことなく追求し続けてきた結果の産物ということではなかろうか。もしそうであるならば、今日の都市生活者が、競ってガーデニングに意を注ぐのは、都市化への過程の中で、どこかに置き忘れてきた「人間本来が持っていた自然の部分を取り戻す行為」と考えられる。

 いかに産業が発達し社会構造や生活スタイルが変わろうと、100年や200年程度では人間の本質は変わり得ないであろう。とりわけ日本においては、敗戦から50余年、まさに0(ゼロ)から出発し物質的な豊かさを求めて、経済性・効率性のモノサシ1本ですべてを測り、わき目もふらず猛進してきた。その結果、世界の経済大国にはなったが心の中に大きな穴が空いてしまっていることに気づき、不安に駆られて立ち止ってしまっている、そんな状態が今日ではなかろうか。

 「衣食足りて心の空虚さを知る」を補完してくれる物が鉢の花であり、庭の緑や花々であろう。ガーデニングはその意味において、人間が本来の人間的な心を取り戻すためのキッカケのように見える。

 そのガーデニングが今ブームだということは、それだけ我々の心が乾ききって荒んでしまっていることを意味する。連日新聞やテレビ等から流れるニュースでもそれは肯けるが。人間が本来の望ましい人間に戻るためにガーデニングがブームになること、それ自体に対しては異論はない。しかし、「その先にあるもの」についても少し考えておく必要がある。

 ガーデニングで使われているのは、そのほとんどが園芸植物と呼ばれる「人間の手によって人口的に作り変えられた製品」である。もちろん植物であるから生きていることに変わりはないが、自然物ではない。見た目は自然でも、人間の嗜好や価値観に添うように改変された「製品」であるという事実。このことは、ガーデニングブームが増大すればするほど、新たに次のような問題が発生することを意味する。

  1.  園芸品種を作り出すために使用される「元になる個体」は、自然界に自生する植物である。そのため、ブームが進めばそれだけ自然から採取される個体数が増えることになり、乱獲によって絶滅する種類が生ずることになり易い。特に、珍しい種類や園芸的価値の高い種類ではその危険度が大きい。
  2.  自然界の中で、既に生育個体数が減少していたり、絶滅の危険性のある種類について、これを防ぐために同一種(?)を自然の中に植え戻す場合がある。この時には往々にして園芸品種が用いられるが、人口的に遺伝子構造の異なった園芸品種が自然界に戻されると、自然界において遺伝子の撹乱が生じ、原種が消滅する等の混乱が生じる可能性がある。
 本来ガーデニングは、都市生活者が自然(疑似自然)に親しむための簡便な方法であるはずが、それによって我々は更に自然を傷つける可能性が有ることも認識する必要がある。

 もともと都市は、自然に背を向けることで都市独自の利点を獲得してきた訳であり、都市生活者は自然から受けていた恩恵を放棄する代償として都市的な利便性や快適性等を享受してきた訳である。

 であるならば、都市に居ながらにして自然の恵みをも求めるのは少々虫が良すぎるのではないだろうか。自然の恩恵を浴したいなら、自らの足で自然の中へ入れば良い。自ら自然に近づく努力をしないで、すべてを手にいれようとすれば、どこかに「歪み」が生じることは避けられないのではないか。

 もともと自然にあるものは、そのまま自然の中に置き、逢いたい時に自らが足を運ぶべきではないか。それが自然と付き合って行くための「大人のマナー」だと思われるが...如何がなものだろうか。



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