コケ植物から見た貴重な自然(1)  白崎 仁



 コケ植物は、一般の高等植物に比べてあまり目立たず、景観を構成する主要な要素と認識されることは少ない。しかし、尾瀬のように広大な高層湿原では、ミズゴケ類の群落が大きいため、他の高山植物の生育との関連性がわかりやすく、保護の対象として重要視されている。残念ながら、尾瀬のように保護がゆきとどいていて、かつ手軽に観察できる広大なコケ植物の群落は、新潟県内にはない。手軽に観察できるかどうかは別にして、種類が比較的豊富な場所、特に低海抜の場所はきわめて少なく、学術的に貴重な存在だが、一般の認識が低いために保護の手が施されないまま、破壊の危険が迫っているところがある。貴重な場所を紹介するのは、破壊を助長しかねないが、幸いにしてコケ植物の経済的価値はあまりない(ミズゴケ類を除く)ので、この機会に多くの人に注目していただき、保護とコケ植物研究者の増加を願って、この場を借りることにした。初回に紹介するのは北蒲原郡黒川村胎内峡である。

 胎内峡は、新潟県北部にあり、奥が深くて狭い谷で背後には2000メートルの飯豊連峰がそびえている。胎内川には発電用に2つのダムが作られている。最奥の椿平には胎内小屋があって、夏には多くのキャンプ利用者が集まり、飯豊連峰の登山の基地でもある。私が初めて胎内小屋を訪れたのは30年ほど昔になるが、その当時の胎内小屋周辺は今とはかなり異なっていた。小屋は今と同じくブナ林に囲まれており、薄暗くて湿気が多かった。小屋のわきには小沢があって、それに覆いかぶさるようにユキツバキが密生しており、林を歩くのも困難な状態だった。20年ほど前にキャンプ利用者の増加をねらってユキツバキを刈りはらい、沢を埋めたてて人が林内を走れるようにしてしまった。私が非常に残念に思うのは、小沢に繁る高さ2メートルほどのユキツバキの枝には、長さ1メートルにもなるぶら下がりゴケ(垂下状のコケ):ミドリイヌエボウシゴケ(Dolichomitriopsis crenulata)がたくさん着いていたのである(白崎 1992)。ぶら下がりゴケは、熱帯雨林によく見られる景観(蘚苔林、雲霧林などとよばれる)だが、亜熱帯の西南日本でもごく珍しいものである。ミドリイヌエボウシゴケは北方に分布する種で、本来のぶら下がりゴケとは異なるが、多雪の山岳でそれに類似した生態が存在していたのは驚異というほかない。ここのようなみごとな群落はほかには見たことがない。このコケと一緒に、これまた熱帯によく見られる葉上苔が着いていた。しかし、ここでは日本海要素のユキツバキの葉上に着生するナカジマヒメクサリゴケ(Cololejeunea nakajimae)だった。ブナ林下でユキツバキが沢をまたいで密生しているため、常に湿度が高く、多雪の下で乾燥と寒冷から保護される。さらに雪圧による倒伏と消雪後の復起を繰り返す特殊環境と、それによく適応するユキツバキの特性が、このような不思議な群落を作ったと考えられる(Shirasaki 1997)。このユキツバキ群落が伐採されて、しかも写真にも残せなかったのはまったく残念至極である。このぶら下がりゴケと葉上苔は、小屋の周辺からは消滅したが、奥深いブナ林には生き残っている(写真1)。しかし、長さ1メートルにもなるものを二度と目にすることはできない。


写真1
胎内峡の斜面に広がるブナ・ユキツバキ林(1990,Aug.24)


 奥胎内の渓流を歩くと、興味深い崖がある。うっそうと繁るブナ林をおだやかに流れる川沿いの急崖は、樹木に覆われないため、多種類のコケが目の前に広がる(写真2)。手のとどかないほどの崖上部はあきらめるとしても、水量の安定している川沿いの斜面はコケの観察に最適である(写真3)。解放されているため、ぶら下がりゴケや葉上苔は生育しないが、水がしたたる所、適度に直射日光があたる所、水没する岩、乾燥しがちな岩など、微気候的に複雑に入り組んだ場所であるため、それに応じたコケが混生する。川沿いの崖の植生はつぎのようである(詳細な記録は、白崎1991を参照)。


写真2
渓流沿いの急崖に密生するコケ植物と、ヒメノガリヤス、ヤマブキショウマ、
ヤマソテツ、オサシダの草本類(1990,Aug.26)


写真3
安定した水量を保つ胎内峡の水際に生育するコケ植物(1990,Aug.25)



胎内峡 340m [地図座標 393376-13(31)] [1990, Aug. 26.]
面積:5m×5m, 傾斜:78度, 方位:N90W
低木層(植被率 70%, 高さ 1.5-3m):
マルバマンサク(3.3), ヤマモミジ(2.2), ミズナラ(1.1), ツノハシバミ(1.1), ユキツバキ(1.1), ヤマツツジ(+), ハナヒリノキ(+).
草本層(植被率 60%, 高さ 1m):
ショウジョウスゲ(2.3), リョウメンシダ(1.2), ジュウモンジシダ(1.2), フタリシズカ(1.1), ヤグルマソウ(1.1), ミゾシダ(+.2), サカゲイノデ(+.2), ヘビノネゴザ(+), ツルアジサイ(+), タマバシロヨメナ(+), アカソ(+), トリアシショウマ(+), キバナイカリソウ(+), クジャクシダ(+), ヒメノガリヤス(+), コケシノブ(+), ウチワゴケ(+).
コケ層(植被率 80%, Q:100cm×100cm, 25種), 岩上:
タチゴケ(Atrichum undulatum), チャボマツバウロコゴケ(Blepharostoma minus), ヤマトクサリゴケ(Cheilolejeunea nipponica), オオシッポゴケ(Dicranum nipponense), ホソバコオイゴケ(Diplophyllum taxifolium), トサカホウオウゴケ(Fissidens dubius), ホウオウゴケ(Fissidens nobilis), ヤマトコミミゴケ(Lejeunea japonica), ホソバオキナゴケ(Leucobryum juniperoideum), マキノゴケ(Makinoa crispata), タカネミゾゴケ(Marsupella emarginata), ヤマトフタマタゴケ(Metzgeria lindbergii), ナメリチョウチンゴケ(Mnium laevinerve), イボクチキゴケ(Odontoschisma grosseverrucosum), ヒメハネゴケ(Plagiochila satoi), マルフサゴケ(Plagiothecium cavifolium), オオスギゴケ(Polytrichastrum formosum), ケクラマゴケモドキ(Porella fauriei), ヒノキゴケ(Pyrrhobryum dozyanum), コフサゴケ(Rhytidiadelphus japonicus), ウニバヒシャクゴケ(Scapania ciliata), ホソギボウシゴケ(Schistidium strictum), オオトラノオゴケ(Thamnobryum subseriatum), トヤマシノブゴケ(Thuidium kanedae), チャボシノブゴケ(Thuidium sparsifolium).

胎内峡 360m [地図座標 393376-13(31)] [1990, May 2.]
面積:5m×5m, 傾斜:83度, 方位:N10W
高木層(植被率 30%, 高さ 8m):
ブナ(2.2).
低木層(植被率 80%, 高さ 1-3m):
ユキツバキ(3.3), リョウブ(3.3), オオバスノキ(1.1), ホツツジ(+), ムシカリ(+).
草本層(植被率 40%, 高さ 1m):
イワウチワ(3.4), イワカガミ(1.1), ヤマソテツ(1.1), シシガシラ(+.2), コケシノブ(+), アクシバ(+), オサシダ(+).
コケ層(植被率 70%, Q:50cm×50cm, 17種), 岩上:
タマゴバムチゴケ(Bazzania denudata), ムチゴケ(Bazzania pompeana), コムチゴケ(Bazzania tridens), ミヤマホラゴケモドキ(Calypogeia integristipula), ススキゴケ(Dicranella heteromalla), カモジゴケ(Dicranum scoparium), シロコオイゴケ(Diplophyllum albicans), コクサゴケ(Dolichomitriopsis diversiformis), キリシマゴケ(Herbertus aduncus), フジハイゴケ(Hypnum fujiyamae), オオシラガゴケ(Leucobryum scabrum), タカネミゾゴケ(Marsupella emarginata), クモノスゴケ(Pallavicinia subciliata), コセイタカスギゴケ(Pogonatum contortum), クロカワキゴケ(Racomitrium heterostichum), ヒノキゴケ(Pyrrhobryum dozyanum), アオシノブゴケ(Thuidium pristocalyx).

胎内峡 380m [地図座標 393376-12(44)] [1989, Nov. 4.]
面積:3m×3m, 傾斜:70度, 方位:W30S
低木層(植被率 20%, 高さ 1m):
ユキツバキ(+), オオバスノキ(+), ヤマツツジ(+), ホツツジ(+).
草本層(植被率 60%, 高さ 0.5-1m):
ゼンマイ(3.3), ヤマソテツ(2.3), ヒメノガリヤス(+), ショウジョウスゲ(+), オサシダ(+), イワウチワ(+), イワナシ(+).
コケ層(植被率70%, Q:50cm×50cm, 15種), 岩上:
コムチゴケ(Bazzania tridens), カガミゴケ(Brotherella henonii), ミヤマホラゴケモドキ(Calypogeia integristipula), カモジゴケ(Dicranum scoparium), シロコオイゴケ(Diplophyllum albicans), オオウロコゴケ(Heteroscyphus coalitus), ホソバオキナゴケ(Leucobryum juniperoideum), オオシラガゴケ(Leucobryum scabrum), カタウロコゴケ(Mylia taylori), フクロヤバネゴケ(Nowellia curvifolia), クチキゴケ(Odontoschisma denudatum), ヒノキゴケ(Pyrrhobryum dozyanum), キヒシャクゴケ(Scapania bolanderi), シフネルゴケ(Schiffneria hyalina), キダチミズゴケ(Sphagnum compactum).

 これらの多くのコケの中で、特に興味深い種の一つに、キリシマゴケ(Herbertus aduncus)がある。分布は広く、東アジア(台湾、中国、日本)からシベリア、北米西部まで広がる(Schuster 1983)が、新潟県では少なく、高山や渓谷の急崖の岩場に限られており、深い雪に覆われるような環境にはまったく生育していない。比較的温暖な佐渡にも分布しないのである。雪の少ない地域(山梨県南都留郡鳴沢村鳴沢980m: SH-12703, 西八代郡上九一色村大室山1100m: SH-12718)では樹上に密生することもあるが、県内では樹幹には着生しない。近県の福島(樋口ほか 1987; 1990; 1997, 湯沢 1994)、群馬(Hattori & Inoue 1959)、宮城(樋口ほか 1983; 1997, 湯沢 1984)、埼玉(Inoue 1962, 木口 1994)、山梨(Takaki et al. 1970)などには比較的広く分布するようである。県内では胞子体も形成されないので、多雪地域にどのように適応しているのか不思議な種である(植生の記録については、白崎1991を参照)。

 豊富なコケ植物が水際まで生育できる(写真3)のは、典型的な日本海型気候の多雪環境と豊かな水を供給するブナ・ユキツバキの自然林が維持されているおかげである(写真1)。しかし、この付近には(写真4)、砂防ダムが建設中である。胎内川と平行する尾根(門内岳登山道の胎内尾根)を挟んで右側に頼母木川がある。小屋わきの道路から頼母木川に橋をかけ、尾根を突き抜けてトンネルを掘り、胎内川に砂防ダムを作っている。川は工事のために泥水となって濁り、土砂が川底を埋めていく。コンクリートの橋のために渓谷の景観は大きく変えられてしまった。この地点から下流に発電用のダムが存在するが、今作成中のダムは、防災とは無関係ではないだろうか。森林の大規模な伐採がないかぎり、大洪水が発生するとは考えられない。水量が安定していることは、急崖に多くのコケ植物が生育することによってよくわかる。ダム工事で多くの種が消滅すれば、それと引き換えにして手にする利益はいったい誰のものか。国立公園の真ん中でひそかに進められ、永遠に続く道路やダムの工事は、いつか飯豊連峰に巨大な爪痕を鮮明に現すことになるだろう。景気浮揚や地域振興などという大義名分のために、自然が大きくむしばまれていくのを、私たちは静かに見守るだけでよいのだろうか。


写真4
砂防ダムの建設地に近い胎内峡のブナ林(1990,Aug.25)




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